報道は正しいが、全てを伝えない。人々が求める報道は、自分に都合がいい内容である。


報道の大前提は「事実を伝える」ですから、意図的であれ誤解であれ間違いはいけません。事実と異なる報道を見て怒るのは当然です。しかし報道に対して「すべてを伝えていない」、「情報が足りない」という怒りは理不尽です。

例を示します。スポーツ選手のAさんが大会で優勝したという事実において、「Aさんが優勝できなかった」とか「Bさんが優勝した」とあれば、これは間違いです。

では「Aさんが大会で優勝した」という一文だけが報道されたとして、何か問題があるでしょうか。Aさんや、Aさんの優勝した大会、そのスポーツについての情報を持ち合わせていない人には、その価値がよくわからない報道になると思います。でもAさんをよく知る人にとっては、その情報をいち早く知れさえすれば十分かもしれません。

あるいは、「Aさんは優勝したが、スポーツマンシップに欠けた行動があった」というのはどうでしょう。Aさんを知らない人は、「スポーツは上手でも人間的に問題があるんだろう」と思うでしょう。でもAさんのことを知っている人は、「何の理由もなくそんなことをする人ではない!」と怒るかもしれません。

では「Aさんは優勝したが、スポーツマンシップに欠けた行動があった。それは相手のB選手の見過ごせない非礼が先にあったからだ」とあればどうでしょう。Aさんは問題になる行動をしたものの、相手も相手なので仕方ない、となるかもしれません。しかし相手のB選手にも、似たような事情があるのかもしれません。

さらに情報を加えるとすると、「Aさんは優勝したが、スポーツマンシップに欠けた行動があった。それは相手のB選手の見過ごせない非礼が先にあったからだが、B選手にも事情があった。それはかくかくしかじかで――」

「Aさんが大会で優勝した」以降の例において、事実と異なる内容はないという前提です。違うのは情報量です。

では優れた報道は、情報量が多いものと言っていいでしょうか。これは違います。「Aさんが大会で優勝した」という情報だけが速報で伝えられれば足りる人はいますし、とにかく早く知りたいという人もいるでしょう。

またAさんの知り合いであれば、どんな内容だったかも知りたくて、後で調べることでしょう。その時にはなるべく詳しい内容があった方がいいはずです。

しかしAさんの試合内容を批判する報道だったらどうでしょうか。Aさんの知り合いは、そんなはずはないと怒り、より詳しい報道を探すでしょう。しかしB選手の知り合いが見たら、Aさんを批判する報道で満足するかもしれません。

いずれにしても、大会で何があり、誰が関わっていて、なぜそうなったのか、そこに関わったすべての事象を、1つの報道で説明することは不可能です。できるだけ情報を厚くすることはできますが、1つの事実を知るために膨大な資料に目を通したい人は稀でしょう。

まとめます。報道は、常にある側面しか伝えません。まず速報性を求めているのか、あるいはなるべく詳細に伝えたいのかという違いがあります。

加えて、報道がどの視点に立っているのか。母国選手が準優勝だったことは大々的に伝えても、他国の選手が優勝したことの視点に立って伝えられる報道は少ないものです。これはつまり報道を見る側が、「自分にとって都合のいい報道を見たい」からです。求めていない情報は要らないし、求めている情報がなければ怒るのです。

報道というのはそういうものなのです。情報が足りないと思ったら他の報道を求めればいいだけです。また自分の思った通りの報道、自分と同じ考えの報道を見つけた時にこそ、別の情報を求めてください。自分にとって心地いい情報だけを受け取って、他を批判するのは爽快ですが、人の考え方、物の見方は1つではありません。

ある日は素晴らしい報道だと称賛したメディアを、別の日には「マスゴミ」と批判するようでは、世に起こる物事の本質は得られないと思います。情報は常に、なるべく多くの視点から得るべきだと思っています。

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